R. シュトラウス: 弦楽六重奏曲(『カプリッチョ』より)
前回後期ロマン派の終点ということでリヒャルト・シュトラウスに言及した。その晩年を飾る代表曲となるとやはり第二次世界大戦末期以降の『メタモルフォーゼン』や『4つの最後の歌』が挙がるだろうが、それらよりも少し前の1940-1941年に書かれた最後のオペラ『カプリッチョ』の前奏曲として奏される『弦楽六重奏曲』も、やはりシュトラウス晩年の奇跡のひとつだ。元々オペラはあまり好きではないので、シュトラウスのオペラとしてはどちらかというと知名度の低い方に属するこの作品も聴いたことがなかったのだが、こんな素晴らしい前奏曲を持っているとは知らなかった。
Richard Strauss: Prelude (String Sextet)
from Capriccio, Op. 85
Oculi Ensemble
(2021)
シュトラウスは1935年にオペラ『無口な女』の脚本を書いたツヴァイク(ユダヤ系)の名を初演のポスターから外すのを拒んだことがきっかけで一時苦境に立たされることになるのだが(作品の多くが演奏禁止になったこともあったらしい)、1941年にはこのようなオペラを作って地元バイエルンの国立劇場で上演することができる程度の立場(本来の彼の業績からすれば当然のものではあるが)に復していたようである。「このような」と書いたのは、オペラの内容が、18世紀パリを舞台に、音楽と言葉(詩)のどちらが上位かという芸術論を繰り広げる芸術家たちと未亡人の伯爵夫人とを軸とした人間模様を描く喜劇という浮世離れしたものであるからである。かつてヨーゼフ二世がモーツァルトとサリエリに作品を競作させ、前者が『劇場支配人』、後者が『まずは音楽、次が言葉』(この内容を下敷きにしたと言われる)をそれぞれ作曲したという貴族文化華やかなりし時代を遠く振り返るようなオペラだ。原案はツヴァイクとグレゴール、脚本はクレメンス・クラウスとシュトラウスの共作。前奏曲として演奏される弦楽六重奏曲は、劇中の作曲家フラマンが書いた曲という設定で、古典的・明朗な美しいアンダンテである。この時代・世相の下で生み出されたからこそ、擬古様式の曲がこれ以上ないほどロマン的に響く。四重奏に比べて低弦が増強されているにも関わらず重心が低くならないというか、むしろ重力を断ち切って浮遊しようとする力を持っている。モチーフの上昇する音程の跳躍は、足元にまとわりつく社会のたわごとを寄せ付けたくないという意思の表れと言ったら勘繰りすぎだろうか。
その後シュトラウスの属していた社会は破局に向い、彼のオペラが上演されたドレスデンやウィーンの劇場も次々に破壊される。バイエルン南端の風光明媚な町にある自宅でそれを知ったシュトラウスは、ひとつの文化の終焉を悼む思いを『メタモルフォーゼン』に込めたといわれる。美しくとも悲劇的で重い音楽だ。そこに至るわずか数年前、まだ辛うじて『薔薇の騎士』の世界にとどまることのできている『カプリッチョ』の明るさは貴重なのかもしれない。
Oculi Ensembleの上記アルバムは確かSpotifyの「おすすめ」に出てきたものかと思う。初期のレアな室内楽作品を『六重奏曲』と『メタモルフォーゼン』(七重奏への編曲)2作で挟んだ構成である。挟まっている中で最も長い弦楽四重奏曲Op.2はモーツァルトやベートーヴェンそのものの作風で、原点がそこにあることを再確認できる。このアルバム、ジャケットを見たときはコンピレーションアルバムかと勘違いしたがそうではなく、れっきとしたプログラムコンセプトを持つものである。レーベルのChamps Hill Recordsは、ロンドンから南西70kmほどの美しい田園地帯に160席の小ホールを持つChamps Hillというトラスト団体の活動の一環で、ホールを活用したレコーディングを行っているらしい。そのような恵まれた環境でこういうプログラムのコンサートをもし聴けたなら言うことはないだろう。
(Dec. 10, 2022)